K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

おすすめ

私の個人的な習性なんだけれど、他人から何かを薦められたとき、自分の中に二つの考えが浮上する。
一方は、薦められたものを一刻も早く見たい読みたいやりたいという、ポジティブな意識。
他方は、感覚は人それぞれだし、まあ参考程度に覚えておこうという程度のネガティブな意識。

 

 

だいたいは後者が勝り、結局それに触れずに時が過ぎ去ってしまうのだけれど、珍しく薦められたものに手を出した際には、またちょっと捻くれた結論に至る。それは、せっかく薦めてくれたものを否定するのは、相手の善意を否定するのに等しいのではないか、という疑い。
多くの場合は無意識的な判断だ。アニメや小説にしたって、私がその世界に浸っているときには、余計なことをあれこれと考えることはない。
ただし、最後までいって評価する段階になると、不思議と薦めてくれた人の顔が頭に浮かぶ。そこそこ悪いものでなければ、なんだが絶賛しなければならないような気がしてくるし、期待外れでも、自分にはたまたま合わなかっただけで作品自体は悪くないと思い込もうとする。
つまり、正常な判断力が「おすすめ」によって阻害されてしまっているのではないかということを、ふと考えてしまった。

もちろん、名作との出会いをもたらしてくれる可能性がある限り、何かを薦められることは歓迎したい。
ここで重要なのは、おそらく作品そのものではなく、薦めてくる相手のほうだ。相手の好みが自らと一致しているか。ほとんど、その一点に尽きる。
感覚に対する信頼は重要で、趣味が合う人の「おすすめ」はだいたい面白いから積極的に触れていきたいし、合わない人は合わないという、きっとそれだけのことなのだ。
だから、何かを薦められたときに手を出すかどうかを決めるためには、作品の世間的な評判や相手との友好度合いなんかよりも、趣味の一致具合を優先的に見ていったほうが、私としては幸せになれると思った。


逆の話で、私が何かを薦めることもある。
この作品が面白かったから是非、みたいなのは、一定以上の友好関係においては比較的よく出てくるシーンで、それ自体には特別な意識を持っていない。別に「おすすめ」通りに見てもらわなくても、構わない。そういうものだ。
ただ、薦めたものにハマっている姿を見ると非常に嬉しくなるし、相手の人生を変えてしまったという優越感すら出てくる。
そう、人生を変えることだってできるんだ。*1

「おすすめ」というのは、相手に自分の価値観を提供することでもある。私と同じ感情を共有したい。あわよくば、こちらの世界に引き込んでしまうことも、やぶさかではない。そういう意図を暗に孕んだ営為なのではないかと思わずにはいられない。
価値観の変動。結構なことだ。どんどんやればいい。それは、とても気持ちのよい世界だ。

 

正常な判断なんてクソくらえ。面白ければ面白いし、つまんなければつまらない。それでいいじゃないか。
そもそも、面白いものだけを摂取して生きていきたいなんて、おこがましい話だ。そんなんだから、いつまでも視野が狭いままなんだぞ。わかってんのか。
清濁併せて己の糧とせよ。

 

まぁ結局、卑近な観点では、何が言いたいかというと、薦めたものを見てくれたら嬉しいから、これからは私も薦められたらなるべく見るようにしようと思うのだ、ということ。
とりあえず触れてみないことには話もできないし、何も始まらないのだ。

*1:ちなみに私は、中学時代のとある友人に対して、良い意味で強烈に価値観を変える影響を与えたことがある。