K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

判断力

練習で鍛えるのが難しい能力の一つに、判断力というものがあると思う。
いくら頭でわかっていても、実際に特定の状況に直面したとき、適切な対処をするのは簡単なことではない。
失敗を繰り返すことでしか、なかなか身につかない。それが判断力。

 

現実問題として、日常的に遭遇する判断力が必要とされる場面は、じっくりと思考する時間が与えられないことが多い。いわゆる咄嗟の判断によって、大きく結果が変わるということがほとんどだ。
優れた知識と思考はもちろん重要ではあるが、本当に必要なのは、頭で考えるより先に行動に移れるようになるための反射神経なのではないか。
そして反射神経を磨くためには、何よりも実戦経験が有効のように思える。

新しいことを始めたとき、事前にどれだけ勉強したり、必要と思われるパターンを覚えたりしていても、役に立たないことがほとんどだ。せっかく武器を手に入れても、手に抱えているだけでは本来の力を発揮することなどできない。
経験が活きるというのはつまり、獲得した知識の扱い方を覚えるということでもある。状況に応じた迅速な知識の稼働こそが、判断力を示すものとなる。
そういう意味では、なんらかの物事に対して、私はいったいどれだけの判断力を持っているのかと疑わしく思う。

 

普段の生活においては、確かに積み重なった経験による判断を行っている場面がいくつかある。それは事実だけれど、実のところ習慣という一言で片づけてしまえる事象に対して、私は己の判断力をうまく使っているという自覚がない。言ってしまえば、誰でもできることや、誰だってやることの延長線上にある行動に過ぎないものばかりなのだ。
はたしてそれは判断しているのか。脳死と変わらないのではないのか。

翻って、慣れないこと、特別なこと、まだ習慣化していないことについて取り組む際は、全力で頭を働かせているという感覚がある。生きている実感とかいうやつに触れた気がするのも、そういうときだ。
しかし、それらに対してはまだ未熟であるがゆえに、これまた判断力という観点では微妙と言うほかない。判断力を身に着けるための訓練課程に等しいのだから当然の話だ。失敗を繰り返すたびに、まだまだ判断力がなっていない、駄目だもっと知識や経験が必要だ、となる。

ただ、逆に完璧にマスターしてしまったら、頭を使った判断をするのか、上に書いたように怪しいところなのだ。
手に取るようにわかる。目を瞑っていたってできる気がする。あれだけ欲しかった優れた判断力が、いざ手に入ったら不要になるなんていうのは、なんとも皮肉な話だ。

 

とはいえ、思い通りにこなせると思っていたことが実はできない、というのもよくある話だ。完璧だと思い込んでいた過ぎず、実際には穴が多いのが人間というもの。機械とは違って、いつだって100%なんてありえないからこそ、判断力の出番は意外に多く存在する。
初心者の自分では絶対に無理だった。ほとんと完全に慣れきっていたからこそ、異変に気がつくことができた。そういう力は、とても貴重なものだと思う。

究極的には、能力の向上を目指す人間が目指すのは、素早い選択が求められる緊急事態において可能な限り間違いを減らすことだ。私もきっと、長期的にはそこを目標としているのだろう。
どうやれば判断力を手に入れることができるのか、道程は果てしなく不透明だけれど、だからこそ無限に想像を膨らませながら歩みを進めることができる。