K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

私以外の人間

半年以上ぶりに大学時代の知人から連絡が来て驚いた。
複数人のトークであったため個人宛というわけではなく、内容も先の予定を聞かれる程度のもの。それ自体は嬉しいことだけれど、特に予定なんかなく「いつでもいい」と返す私が浮いてしまうくらい、他の人間がなんだか忙しそうという事実に、ほんの少しだけ悲しくなる。

 

まだ何も決まっていないけれど、かなり久しぶりに会うことになるとして、彼らは以前と比べて何か変わったことがあるのだろうか。わたし気になります、というやつだ。

この半年くらいで、私自身は生活様式や物事に対する考え方、行動指針などが大きく変わった。一つには感染症の影響によって無理やり変えられてしまった部分があるけれど、大半は元から心のうちに秘めていたものだ。遅かれ早かれ、こうしていたに違いない。
しかし、私のように一般的な道筋から外れることを自ら望むパターンはおそらく珍しいだろうと思われるので、私でない彼らは何を感じ、何を思っているのか……Twitterなどからその一端を垣間見ることができるけれど、基本的には大きく変化しているようには見えないのが現状だ。実際に会ってみないと知り得ないことも多いだろう。
変わったことと言えば、三か月に一度くらいは会っていた人間が今日に至るまで私に一切のコンタクトを取ってこなかったということだが、存在が完全に忘れられていたわけではないようでホッとした。

これだけ多様な情報が得られる社会において、歴史的な出来事を世界全体で経験して、さまざまな選択肢がいくらでも転がっているように見える状況になって、それでもなお当たり前のように「いつもの日々」を続けていける彼らの姿が眩しく映る。私がこれ以上は続けていけないと断念した道を、これからも彼らは歩み続けるのだ。なんてすごいことだろう。
これは皮肉ではない。そう見えるように書いてしまったけれど、リスペクトの想いがあるのは本心だ。
私はただ、不安定さにこそ魅力を感じただけなのだ。どうなるのかわからない、何も保証がない道程。その先にあるものにこそ、強く惹かれる。モチベーションになる。
安定した道を長く歩いていると、退屈で頭がおかしくなってしまうのだ。まぁ頭なんて最初からおかしいのかもしれないが、とにかくこれは生きていくために必要なことだったと思っている。

 

予定は未定であって、そもそも成立しない可能性だってある。始まる前からこれだけ文章で盛り上がっているあたり、私の心は喜んでいるらしいが、流れてしまったらどうなるのだろう。
仮に予定が決まったとして、彼らとは年末年始頃以来の再会となる。もしかしたら私以外のメンバー同士では会っているのかもしれないが、いずれにしろ積もる話というやつがあるわけで、最近の心境の変化も含めて話す機会が巡ってくるだろう。
私は迷っている。何を話すべきか。どこまで教えてよいものか。

だいたいこんな感じで考えている、というようなことは、昨年の段階で話したことがあった。どこまで本気にされていたか怪しいところで、実際に行動に移していることを打ち明けたら呆れられるかもしれない。
何を言われようと私は構わないのだが、しかし時期が微妙に悪い。これまでの生活が終わるギリギリのタイミング、つまりまだ新しい生活が始まる前の段階で、そのため何も成果が出ていない状態だ。個人的には、具体的に動き出してある程度の結果が形になったものを見せていきたいと考えていたため、ここですべてオープンにしてしまうのは、心理的に感触が悪い。
ならば新しい部分については一切を秘匿し、周囲に合わせて、ありふれた退屈なエピソードでも語ることにしようか。本当にそれでよいのだろうか……うっかり口走ってしまわないだろうか……言わないことで余計な不満を抱え込むことになるのではないだろうか。
どのみち、雑念は湧いて出てくるわけだ。難儀なことだな。

仲のいい間柄でも話すべき内容は精査してから表に出さないと、後悔する羽目になるということは、過去の経験から学んだことだ。それは家族相手にも同じことで、畢竟、最後まで信じられるのは自分しかいないのだから。