K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

夢で想いを供養する

昨日の掃除で埃を吸い込みすぎた影響か、体調が最悪な一日だった。
寝起きに風邪を疑い、とうとう発熱したのかと測ってみたら平熱で、けれど症状は熱にうなされている時のようなもの。頭と目蓋が重くて、いくらでも眠れそうなくらいに身体が怠い。まぁ実際には喉が痛いだけの、ただの風邪なのだろう。
ふと、朝方と昼寝で見た覚えのある、いくつかの夢が印象的だったのだけれど、なんだか最近よく見る夢の傾向がどうにも似ていて、気が滅入るような想いになった。

 

「夢」というと、寝ている時に見る幻想世界だけでなく、将来の夢なんて言われるように、未来において成し遂げたい目標のようなものを表現する際にも使われる。今の現実とは確かに違う「私」の姿。それは時に華々しく、時に残酷で、必ずしも前向きなものばかりではないかもしれない。ただ、一般的に「夢」と言った場合には、ちょっぴり明るいイメージが付きまとうような気がする。
個人的には、「夢」という言い方はどこか他人任せのようで、現実のものとして心から手に入れたいなら避けたい表現ではあるけれど……だから基本的に、目標は目標としか考えていない。

睡眠中の夢で見る出来事は、現実世界における記憶の整理とか、思考の断片のつぎはぎとか、あるいは願望が映し出された姿、なんて考え方があるのかもしれない。私の場合は、合っているようなそうでもないような、ただ少し現実に寄り添いすぎていて、けれども深入りしすぎるほど現実感に乏しいものが多い印象がある。最初から非現実的であれば、ずっと楽だろうに。
それは、なんと言ったらよいだろうか、未来に対する明るい考えというよりは、過去に対するもの。それも、後悔に近い後ろ向きなイメージがとても強い。
たとえば、もう決して会えない人と会ったり、返事が貰えなかった人から連絡が来たりといった、私が現実では味わえなかった選択の末に待っている、あったかもしれない過去……そして未来。
夢から覚めると、いつも残念な気持ちになる。別に本心から強く望んでいるというわけではないのだ。ただ、少しだけ悔いとして感じていた出来事を、すっかりと打ち消して幸せそうな物語にしてしまう。それを心の深い部分で体感する羽目になるせいか、目を覚ました瞬間にその特別な世界が消え去ってしまうのが心寂しいようで、儚くて、ついため息が出る。
「なりたい姿」を形容するために「夢」という言葉を使うことを忌避するのは、所詮は夢なんて叶わない世界の姿だからだと、きっと心の底で信じてしまっているからだ。
なんだ、夢だったのか。そう呟く私の唇は、ひどく乾いていることだろう。

何がなんだかわからない空間で意味不明なままに弄ばれるのも夢でありがちなことだけれど、頭に残りやすいのはそういうのよりも、現実で見たイメージや記憶の映像に接近した内容であることが非常に多い気がする。そんなわけで、意志とは無関係に見させられる夢のせいで朝からメンタルが持っていかれることがしばしばあって、実は結構な悩みの種となっているかもしれない。別に、決まって悪夢というわけではないのだけれど。
寝起きながらに思わず感情が揺さぶられていることに動揺しながら、徐々に寝ぼけた頭が覚醒していく感覚は、見方によっては素敵な体験であるとともに、なんだか虚しい一日の始まりを予感させるように思えるので、眠りというのは夢のことなんて覚えていないくらい深いもののほうが、きっとよいのだと思う。