K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

顔が良くても

自慢でもなんでもなく、ただ思ったことを述べるだけなのだが、私は顔が悪いほうではない。
外見に関する評価は時代によって変わるものだし、絶対的な指標がないから、基本的には複数の人がそう判断しているというだけの雰囲気で決まっていることが多いと考える。
世間の誰かに評価されているわけでもない個人の感覚なので、客観的に多くの賛同を得られるかと言えば、また別の話になるわけだけれど、それでも平均よりは上にいるという確かな自信があるのだ。

 

自信の源は、たとえばアイドルの写真と鏡に映る自らの姿を比較することで感じることはできるが、一方で自身の要素以外にも存在している。
簡単な話だ。
両親ともに整った顔立ちをしていて、昔の写真を見せてもらえば美男美女がそこにいるし、今でも悪くない老け方をしているように見える。
そんな親から生まれた私が極端に不細工な顔に育つはずもなく、そして順当に悪くない顔を手に入れたというだけの話だ。

親のおかげで、幼少期から現在に至るまでに外見に関するコンプレックスというものを感じたことは、ほとんどない。
ただ、顔が良ければ何もかもが上手くいくかというと、まったくそんなことはなく、私を取り巻くあらゆる物事は、私の外見とは関係なしに進んでいく。
私が私として存在感を発揮するために必要なのは、顔よりも行動力だった。コミュニケーション力だった。
学校の成績は学年上位で、外見も平均以上。運動神経もそこそこ優秀だったから、カタログスペックだけ見れば学生生活において困ることなんてなさそうなのに、青春が存在しなかったと言っても過言ではないくらい、あの頃の私は刺激に乏しい日々を送っていた。

見た目というのは、人生のどの段階においても軽視されることはないファクターだと思うけれど、それはそれとして、人間の本質的な部分を突き詰めていくと、決定打にはなり得ないのかもしれない。
大衆の美的感覚の変化以外では価値が落ちることのない二次元の世界は別として、人間は必ず老いる。長い目で見た時に、より魅力的なのは、外側よりも内側に詰まった心に他ならない。
私は、その点が一般人と合わないのだ。いわゆる変人というやつになるのだろう。過去に親しくした誰に問うても、私に対する印象には共通点がある。普通じゃない。だからこそ付き合ってくれた人もいるのだろうが、絶対に性格が合わないと感じて近づく前に離れていった人は、きっと私が思っている以上に多いはずだ。
そこそこ仲が良かった人間も、警戒しているのか深々と踏み込んでくることはなく、こういう世の中になってしまったせいで、もはや誰とも積極的な連絡を取れなくなった。
「ちょっと頭のおかしなやつ」だから、普通の神経をしていたら一緒にいて疲れるのだろう。これは勝手な被害妄想だが、おそらく気軽に誘える対象にはなり得ないのだ。

 

親と久しぶりに会うと、恋人を作らないのかと尋ねられることがある。
昔から私のことを知っているから、大きな期待を抱いているということはないはずだけれど、外見について褒めながら「どうして?」と、やんわりと聞いてくる。
どれだけ顔が良くても、他者にとって魅力的な人間性というか、性格というか、顔以外にアピールできる何かを持たないのだから、仕方ない。
今のところ結婚願望はないし、できるとも思っていないから生涯独身の可能性がそこそこ高いと感じていて、それ自体についてはプラスにもマイナスにも捉えていない。ただ、親に孫を見せてやれないのは、なんだか不憫に思ってしまう。難しい問題だ。

いわゆる「地雷」の私を好きになる人間がいたとしたら、もっと他に相応しい相手がいるだろうと考えてしまうし、とんでもない物好きだったとして、その人も「地雷」である確率は高く、結局のところ誰かと結ばれて幸せになる未来が見えない。
学生時代に恋愛を経験できなかった人間は人間性に問題がある、などと言われることがあるけれど、まぁ間違ってはいないのだろうな。