K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

引きこもると運が逃げていく

「あまり外に出ない」という風な言い方をすると、おそらく人によって受け取り方が異なる。「あまり」なんて曖昧な表現は、まったく定量的ではないから特に理系の人間は嫌うかもしれない。
私の思考は基本的に定性的な感覚に依存している部分が多いため、むしろハッキリしないことにこそ魅力を覚えさえするのだけれど、このあたりの考え方は個性そのものなので、相容れない人とはトコトン相性が悪い。

 

あらためて書くが、私はあまり外に出ない。
ぼんやりと想定する一般人の標準的な感覚からすれば、インドア派というイメージから連想される外出頻度は、週の半分くらいなのではないかと思う。
今はテレワークなど、自宅で仕事ができる環境が整いつつある社会だから余計に在宅機会は増えているだろうけれど、これを従来の生活パターンに置き換えるならば、土日のどちらかは家から出ない……くらいのものだろう。

一方で、私の「外出しない」は、ちょっと次元が異なるレベルだ。
予定がなければ、まず外気に触れることはない。
それでは、予定がどれくらいの頻度で訪れるかという話になるが、週に一度の食料の買い出しは生きていくために仕方ない必然的な行動としてカウントすることになるものの、それ以外にはイレギュラーなイベントを除いて皆無と言って差し支えない。
要するに、何もなければ月に四度だけということになる。その買い出しも、嫌だ嫌だと半ば拒絶反応を示しながら、やっとのことでエネルギーを絞り出すような形で実行に移せるくらいに後ろ向きな習慣であるため、ひどい時には二日くらい食料不足に陥りながら引きこもりを続けていることもある。

こうして言語化してみても、きっと普通の感覚を持った人間には伝わらないのだろう。
外に出ることが、どれだけ億劫なのか。起きてから玄関のドアを開けるまでに途轍もないエネルギーを要するということが、どうやら普通の人には大してないらしいということを、最近になって気づき始めてきた。
本当に、外が駄目なのだ。太陽光が苦手だとか、風に舞う花粉がしんどいとか、そういう話ではない。ただ、外に出るという行動の枠組みに対する本質的な嫌悪感が、私を著しく内向きな性格に作り上げている。
いったん外に出てしまえば、帰宅するまでは大丈夫と言ってもいい。外に出るための一歩が、何よりも重いのだ。

社会不適合者が集いやすいパチンコ店などには、この性格が変わらない限り金を落とすことはないと思う。だって、外に出るのが大変なのだから。
誰か知人に誘われて、どこかへ赴く用事が出来た時にはどうにか大きなステップを乗り越えることができる。しかし、今すぐ外出する必要性なんてないと少しでも感じた瞬間に、外を出歩くためのエネルギーは室内で実行可能な別の物事に充てられてしまう。

 

こういう生活に突入してから、もう一年以上が経過している。
今のところ、運動不足という以外の不都合は生じている気配がないから、もうしばらく続けることになりそうだが……ひょっとすると、最近これが私から運気を奪っているのではないかと思うようになってきた。
自らの選択によって操作できる部分においては最大限の人事を尽くし、結果は運に任せるしかない……そんな出来事は結構あると思うのだが、このところ私の願いは上手く成就しないことばかりなのだ。
以前はもっとわかりやすく、こちらの行動に対する良好なレスポンスがあった。それが最近では手応えがなく、私へと集まってくる「流れ」がまったく感じられない。

外部との接触を絶ち、内なる空間に留まり、良くも悪くも刺激に乏しい安寧に浸っている。
罰というわけではないのだろうが、まるで世界の理から外れてしまったかのように、私の行うことごとくが空振りするような日々を現在進行系で感じ取っている。
そろそろ、気づいたぞ。私は普遍的な法則から無視されている。何をしようと、期待した幸運は返ってこない。

前から主張しているように、個人が経験する運や確率の偏りは人生でチャレンジできる範囲では収束しないと思っているため、現時点で私は底知れぬ泥沼にハマりまくっているし、ここから這い上がることも難しいだろう。
本当にバカみたいな話だ。もう期待するのなんて、やめてしまおう。期待せず、完全に忘れ去った頃になって、目の前に突然の反応が表れたほうが、まだ幾分か嬉しいはずだから。