K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

体力は虚無と反比例する

明日から少し立て込んできそうな予感があるけれど、逆に今日はこれといって時間的な拘束を受ける対象がなく、やや手持ち無沙汰になってしまった。
昨日の今日で睡眠にかまけるということもなく、無事に買い出しミッションは成功、少なくとも今月一杯は引きこもっていられる環境を手にすることができたので、私に爆発的な活力と体力さえあれば有り余る時間を有効に活用できたに違いないのに……現実は厳しい。

 

今の状態をわかりやすく例えるなら、まさに夏休み後半の学生だ。
休みに入る前の試験期間中、勉強に取り組んでいる間に膨らませる想像……休暇中に、あんなことやこんなことを楽しみたい、存分に遊びまくるんだ……そうした近い将来への淡い期待感は誰しも抱いたことがあるだろうが、頭の中に浮かべた「予定」の数々をその通りに余すところなく実現できる人間というのは、実際にはほとんど存在しないのではないだろうか。
たいてい皮算用に終わりがちというか、結果的に一部でも消化できていればマシなくらいに、何もしないものなのだ。何度もこういう経験の心当たりがあるのは、私だけだろうか。
いざ現実に自由な時間を漂うことになると、地に足をつけてスケジュールを一つひとつ片付けていくのは難易度が高い。言うのは簡単だし、無限ですらある。
ただ、ふと何気なく考えた「やりたいこと」というのは大部分が自己満足を目的としているため、基本的には責任を問われないものだ。要するに、やらなくたって誰にも咎められない。

私を突き動かすのは好奇心か、突発的な衝動か、あるいは。強制されるものでない以上、元気が出なければ、元気が出るまでそれらは後回しになってしまう。
そしてコンディションが整う頃には、必ずしも当初の熱意を維持できているとは限らない。
最終的に果たすことができるのは、両者が偶然にも噛み合ったタイミングで熱中できる僅かな物事でしかないのだ。
そういう意味では、せっかく手が空いているにもかかわらず私の身体が万全ではないせいで、いくつかの新しい刺激を受け取るチャンスをみすみす逃してしまっているということになる。今日は、非常に残念な日であると言う他ない。

 

とある配信で、ウマの新シナリオについて考察しているのを眺めて思ったことがある。
これに、いったいなんの意味があるのだろう。
Twitterで検索してみても、同様の感想しか出てこない。某サポートカードは死んだとか、インフレについていけないとか、運営に対して文句を垂れるお気持ちツイートを有象無象のバカが発信している。
いや、赤の他人を罵倒するつもりは毛頭ないのだが、始まってもいない事柄を限られた情報から予測して、あたかもそれが真実であるかのように騙って不満を爆発させるのは、ちょっとズレているのではないかと思ってしまうのだ。

もちろん、少ないとはいえ得られた情報から推測すること自体は悪いことではない。事前に予想しておくことで、新しい環境に適応しやすくなる効果はあるだろうし、退屈な期間の過ごし方としては結構なことだろう。
ただ、それにしたって、あまりにも断定的な表現が多くて目に余る。何を知っているんだ、お前らは。何も知らないくせに。いい加減な情報を強い口調で吹聴する連中が多すぎて、それを見た知識の少ない人間は始める前からネガティブな印象を抱いてしまうではないか。
楽しみに待っているだけでいいはずのに、その手の否定的な意見が飛び交う環境に身を置いていると、純粋な気持ちで楽しむことを阻害されてしまう。
興味を持って情報に近づいているはずのに、却って興味を失いかねないのだ。本当にノイズでしかない。

私は公式アカウントしかフォローしておらず、いわゆる「タイムライン」というものを構築していないから、個人の無責任な発言は滅多に視界には入ってこない。
それでも、軽く検索しただけで溜め息が出るような惨状なのだから、普通にTwitterを運用できている健常者は常時、毒に冒されるリスクを抱えているということになる。
恐ろしい世の中になったものだ。

誤謬の再生産の構造については過去に何度か指摘しているけれど、このところインターネットリテラシーに欠ける層が徐々に幅を利かせてきた気がしている。
生まれた時からスマートフォンとともにある年齢が、ちょうど中高生あたりだろうか。その影響かは不明だが、明らかに数年前とは雰囲気が異なるのだ。
どこから火の粉が飛んでくるかわからないし、私も気をつける必要があるだろう。