K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

ガチャとキャラ愛

アニメでもゲームでもなんでもいいのだけれど、コンテンツを楽しむために必要な要素として、キャラクターに対する好意というものがある。
あのキャラクターのここが好き、こういうところが魅力的……そうした意識が積み重なっていくことでコンテンツに対する熱意が増すし、その特定のキャラクターに焦点が当たるタイミングをご褒美のように捉えることもできるのではないだろうか。

 

わかりやすく最近の言い方で表現すると「推し」ということになるのだろうが、過去の日記でも書いたように、私には「推し」という感覚がイマイチ備わっていない。
まだ精神が未熟だった時分には、アニメを見て「このキャラクターが好きだ」という想いを抱くことはあったような気がするけれど、今では作品自体を愛することはあれど、キャラクターそのものに深い感情を向けることはなくなってしまった。
もちろん、好みはある。ただ、それはキャラクター自体に向けられる感情というよりは、そのキャラクターに与えられた属性に対してのものなのだ。
たとえば、髪型や髪色、顔の造形、服装、性格、声色、様々な身体的特徴……結局のところ、キャラクターというのは記号の組み合わせであるから、しっくりくる組み合わせを好んでいるだけということになる。

アニメというのはキャラクターの出番が制作の都合により決まってしまうため、視聴者の立場としては、見たいものを好きなだけ見るというわけにはいかない。
一方で、ゲームの場合は難易度を無視するなら、好きなキャラクターだけを使うということが可能だ。
愛情を向ける頻度を操作することができる。だからこそ、商売として十分に成り立っているのだと思う。

ソーシャルゲームにおける定期的なガチャ更新の発表では、そのキャラクターを待っていたという人が歓喜する姿を観測することができる。天井なんてお構いなく、むしろたくさん引いて最大強化まで持っていくくらいの勢いで、入手後はひたすらに愛でる。実に幸せそうで、結構なことだ。
残念ながら、こうした感覚が私にはない。
確かに、新しく実装されるキャラクターを見て、ちょっと欲しいなと思うことは珍しくない。ゲームだから性能も大事だけれど、それとは関係なく惹かれるポイントだってある。
けれど、いざピックアップガチャが開催されると、私は妙に冷静になってしまう。あれだけ好感を抱いていたはずなのに、引くか引かないかの判断は性能次第になってしまいがちだ。
これは、私がキャラクターそのものへの愛を、心の中で育むことができていないからなのだと思う。

ある意味で羨ましい。
好きなキャラクターの実装を心から喜び、実装直後にわくわくしながら引いていく。手に入れてからは可能な限り最大強化させて、活躍させられる場があれば積極的に採用していく。
本当に楽しそうだ。
私なんて、なるべく石を減らしたくないからガチャなんて引きたくないと思っている。仮にキャラクターが魅力的かつ性能もそこそこで、前向きに引きにいけるという場合でも、最初の10連で入手できるならそれに越したことはないのだ。別に複数を重ねて、すぐに最強にしようとも思わないのだから。

 

ガチャというのは、実のところ性能が明らかになる前が最も楽しいのではないかと思い始めている。
確率の上振れ下振れに感情を左右されるガチャの真っ最中ではなく……欲しいかもしれない、引くべきなのかどうか、と頭を悩ませている実装前日こそが、私にとってはガチャというコンテンツのハイライトなのかもしれない。

好きな要素満載でも、強く使ってやれないのなら手元に置いておく意味がない。
そうやって数々のガチャをスルーし続けてきた結果、石の貯蔵は大量である一方、コンテンツ自体へのモチベーションが少しずつ下がってしまうなんて現象が、現在進行形で発生しているような気がしないでもない。
たまには、純粋な欲だけに従って運試しするのも、長く遊び続けるには重要なことなのかもしれない……そんなことを、ふと思った。