K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

衰えの末路

まだまだ肉体的には若いはずなのに、生活習慣が終わっているせいで昔よりも体力的な不具合を実感することが多くなった。
これ自体は運動不足が招いた問題だという風に解釈することができるため、実際にどれだけ衰えが進んでいるのか定かではない。十年や二十年、同じような生活を送っていたら主観的な感覚を比較することもできるのだろうが、その領域に到達するには、あまりにも若すぎる。

 

そういうわけで、生命が衰えるという真理を具体的に感じ取る機会は、身近な年上の人間の変化から、というのが最も一般的なのではないかと思う。
どうやら、私も珍しく典型的な例に当てはまりそうだ。

個人差が大きいところなので、あまり他者と比較しても仕方ないかもしれないけれど、多くの人にとって初めて他人の死に直面する瞬間というのは、祖父か祖母なのではないだろうか。
早ければ自分が生まれる前に亡くなっていることもあるだろうし、物心つく以前の幼少期や、大して思い出のない小学生時代にこの世からいなくなってしまう……なんてこともある。

幸いにも、私の祖父母は随分と長生きで、いずれも平均寿命を上回るくらいまで存命という事実があるのだけれど、残念ながら歳を重ねるにつれて祖父母と会う頻度は減少していく一方なので、衰えきった彼や彼女の姿というのは、私の頭の中にあるイメージとは非常に乖離したものになってしまっている。
もともと祖父母の世話になることがない家庭環境だったこともあり、一緒に過ごしたエピソードなんて数えるほどしかないものだから、そのイメージというのもすっかり輪郭が曖昧になっているわけだけれど、これほどまでに距離感が生じてしまうと、もはや祖父母という感覚すら希薄になっているような気がする。
いったい、どうするのが、どう感じるのが正解だったのだろう。もう、溝が埋まることはない。

 

それはそれとして、祖父母に焦点を当てなくたって衰えを知ることはできる。
自身の変化を除いて、わかりやすいのは両親だ。生まれてから、つい最近まで暮らしていた。直接的に血の繋がりのある、私にとって数少ない代えのきかない存在だ。
若かりし頃の姿も、しっかり覚えている。私が成長する一方で、あの二人は徐々に老けていった。そして私の成長が終わり、さらに衰えが始まるかどうかといった近年に至ると、両親の変化には顕著に気づくようになった。
もう若くはないのだ。あらゆる行動が昔のパフォーマンスに及ばないし、頭の働きも明確に落ちているから。
子供の頃は何をしたって親は目上で格上の存在だったのに、今は会話をすると同格か、あるいはそれ以下であると直感的に理解してしまう。
これが生命の現実で、宿命で、いずれ自らも経験することになるわけだ。悲しさと同時に、抗えないことを知っているからこそ、瞬時に諦めて受け入れてしまう。

その衰えた両親が、さらに衰えた祖父母とのコミュニケーションに苦心しているシーンが、記憶の中にいくつかある。
肉体的には三十代、四十代、五十代……と少しずつ落ちていく傾向にあるようだが、頭は違うようだ。ある時、急に駄目になる。
物忘れが増えるとか、計算力が落ちるとか、その程度の些細な衰えなら肉体と並行して進むものなのだろうけれど、露骨に物事を認識しなくなり、人として終わってしまったかのような感覚を抱く衰えは、あっという間なのだ。
誰しも健常である時には、その状態を理解できない。ただ、そうなってしまったら、その人との関係性が終わりだということだけは、わかってしまう。

私の人生は、今後も健康でありさえすれば何十年も続いていくことになるはずだけれど、そろそろ年上の近しい人間が一人、また一人と減っていく……そんな時期に差し掛かっているのだと自覚しないわけにはいかなくなってきた。
これは、人として生を受けたからには、いずれ乗り越えなければならない通過儀礼のようなものだ。
直近で見えているのは、まだ間接的な、要するに祖父母世代の往生になるわけだけれど、そのうち親世代がそうなってしまうのだろうから、他人事ではいられない。
考えたくないのに、絶対に考えなければならない問題だ。気が滅入る。